これほどの熱狂的な歓声で迎えられた初日は、バイエルン州立歌劇場にとって久しい。演出家アンドレアス・クリーゲンブルクの示すつつましく、それ故に強く訴えかける解釈の勝利である。
劇場の屋根からポトポトと雨漏りしているように見える舞台。登場人物たちが靴を引きずって水溜まりを歩くと、バシャバシャと水の音が立つ。水面には光が鬼火のように映し出され、そこに時おり残飯が投げられ、黒い男たちが転がりつかみ合いをする。そして、この水溜まりの上を箱が浮遊する。箱がズームしてマリーの部屋、医者の診察室となり、不安定さを予示する。このようにとてもスペクタクルなのにシンプルな舞台である。さらに、ヴォツェックの冷や汗でべっとりと濡れた顔が光に反射し、じめじめした湿地から臭いすら感じられるほどの迫力もある。
クリーゲンブルクとハラルド・トアー(美術)とアンドレア・シュラート(衣裳)は、彼ら独特の美学を作り上げた。無声映画の表現主義、様式化した振付、夢の象徴のような暗示、これらの混ざり合った美しさである。15のシーンごとの“温度”を感じ取れる演出である。
これらはヴォツェックの幻影なのか? またはヴォツェックは、さ迷い歩く幽霊の1人なのか? 医者、大尉、鼓手長はどぎつく誇張して描かれている。マリーは、2人の愛人の求愛に、誇らしげに立つ人形のように身をゆだねる。ヴォツェックも顔色が悪く、髪は脂でべとべとで、これらの悪夢の一部のように見える。
圧倒的な大成功のヒーローは演出家であろう。クリーゲンブルクがこのプロダクションで見せた冷静な神経を深く読み取ろう。もうベルクを恐れる必要はない。バイエルン州立歌劇場の新しい時代がこの「ヴォツェック」で始まったのだ。
ヘドロと墨の闇のなかで、ミュンヘンの新しい「ヴォツェック」は、恐ろしいまでの美を露わにした。名もない貧乏人がダークスーツを着て、水溜まりに倒れる。ヴォツェックの部屋はゾッとするほど朽ち果て、唯一の装飾品はキリストの磔刑のポストカードのみ。彼の息子はサルの人形を突き刺すが、それは医者が施す医学的な拷問のイメージとなる。
アンドレアス・クリーゲンブルクによるバイエルン州立歌劇場での新制作は、貧困と苦悩を精細に描くことを試み、そのどん底と重苦しさのなかで新しいスタンダードを打ち立てた。
1820年代に設定した舞台で、全員が厚いメイクで表情を誇張し、白黒の無声映画のメロドラマのように物語る。フランケンシュタインの風貌をした医者は、革のコルセットと鉄の装着具でヴォツェックを締めあげ、カテーテルやねずみを使って実験する。親からネグレクトされた子供は、むき出しの壁にタールでスローガンを書く。愛を欲している誰もが愛を得られない。極度に様式化されたセット(美術:ハラルド・トアー、衣裳:アンドレア・シュラート)のなかで、クリーゲンブルクは冷たくサディスティックな世界のイメージを次々と暴いていく。
これはとてもとても素晴らしいプロダクションで、何度も観るべき舞台である。
音楽? それとも演劇? この使い古された質問は、サリエリ(「はじめに音楽、次に言葉」)やR.シュトラウス(「カプリッチョ」)でも取り上げられているが、ここで再び少なくともひとつの答えが出た。それはムジークテアター(音楽劇)だ。
演出のアンドレアス・クリーゲンブルクは、難しいシーンの連続を観客が納得いくよう彼なりの舞台手法で語り進めた。浮遊する部屋と水があふれる舞台の間、つまり内部と外部の世界を行ったりきたりして、各登場人物を精密に描き出した。クリーゲンブルクのヴォツェックは、狂気の集団の中で唯一ノーマルな人物である。抑圧、貧困、経済危機というテーマをも、彼は合唱とエキストラで見事に扱っている。素晴らしいの一言である。
強烈な、最高水準のオペラ体験である。この公演に、多くの賞賛がさらに寄せられること疑いなしである。







